僕らが消費をしない理由

去る2月10日は有給休暇取得推進日だった。2月11日は国民の祝日だ。だから基本的に僕の職場ではほとんどの人が4連休だった。しかし僕は特別に炎上中の案件にアサインされているので月曜日から土曜日までずっと仕事するという名誉に預かることができた。これによって僕の2月の前半2週間で残業が40hを超えることとなりこのまま行くと2月の超勤時間は80hを超えるのだけど、厚生労働省の基準ではブラック企業となる基準は月100h以上の残業時間の社員が10名以上もしくは1/4以上ということで、1名だけだったらなんの問題もないのだ*1

 

それはそうとそんなわけでこの2月上旬の仕事にたいして5万円ほどの手当がつきました。臨時収入です。だから5万円をどう使うべきかを考えたのですが、冷静に考えると健康保険で14%程度、住民税で10%、所得税で23%程度をこの5万円から払わないといけないわけです。つまりもう50%近い額を使ってしまっていて、残りは2万7000円くらいになってる状態なわけです。仕事中に使ったちょっとした交通費とか食事代を考えるともう残りは2万円台前半です。そう考えたまさにその瞬間、僕の中で、この5万円を何に使おうかということに対する意欲がものすごくしぼんでいくのが感じられました。だって普通あぶく銭が入ったら半分くらいは貯金するじゃん。半分は使ってもいいけどさ。でもいまもう半分以上は使っちゃったような状態になってるわけじゃん。もう残りは貯金じゃね? ってなった。なんか本当に欲しい物が出てきたら買うよ。でもそんなものは別にこの5万円がなくても買ってたけどな! みたいな感じ。

 

 

別に今の税金が高すぎるとかそういうことを言いたいわけではなくて、単純にこの2月にそういうことが僕の中で起こった、というだけです。雑な計算すぎて本当は違うんだという話があるかもしれないけど、保健と税金は多分適切に消費されているわけだし、僕らも金をさほど溜め込んでるわけじゃなくて半分は使ってる。それ以上を使わせたいならなんかもっといろいろ考えないといけないんじゃないか、って思いました。

*1:でも不思議じゃないかい? 100h以上だったらヤバいというなら10名とかじゃなく1名でも問題のはずだろ? なんで9名ならOKで10名になった瞬間に社名公表なの? むしろみんなが100h超えをしている職場と、みんなが20hくらいの残業なのにひとりだけ80h以上の残業を押し付けられているような職場どっちがヤバいんだよ、みたいな

平林久和氏のことはよくわからないけど擁護していいよね

こんな記事が増田に出ていました。片側から見た世界というのは第三者から見た世界とは大きく違うのだなあと思いました。

 

anond.hatelabo.jp

 

平林氏をdisる理由として次のようなエピソードが書かれています。

 

2006年頃、アルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)というパチスロ会社の子会社で管理職をしていた。アルゼはその頃ゲーム開発から手を引くことを決め、ゲーム開発部署の社員が集められ、赤司(後述)を伴って平林氏から話があった。この話が無茶苦茶なものだった。

PS3の売り上げが低調だ。ゲーム業界はもう駄目だ。

・かといってパチンコ業界もこれから縮小するといわれている。新しいことをしなければならない。

・例えばARMだ。これで携帯電話は飛躍的に処理能力が増える。そこに向けてコンテンツを作る。

         :   

ARMというのは携帯機向けのCPUの設計図なのだが、調べてみるとゲームボーイアドバンスなどにも使われており、別段新しいものではない。しかしその場では誰もARMなんて知らないので、黙って聞くしかない(知ってる人もいたかもしれないが)。ゲーム開発を止めたアルゼが、ARM向けのコンテンツ(何なのかよくわからないが)を開発するとも考えにくい。

 

  • ほとんどの人は知っている通りARMはCPUコアの名称であり英ARM社がアーキテクチャからIPデザインまで行っているやつです。
  • そして各社がそれのライセンスをARM社から得て携帯電話向けCPUを作っていたんだけど、2003年頃からそのARMの性能向上が加速してきたところでした。
  • 2006年頃と書かれているけど、PS3(2006年11月発売)の売上が低調ということから、この話は2007年のことなのかなあ? でもプロジェクトシルフィードの発売直後だったらやっぱり2006年頃なのかな。なんにせよCortexファミリーが発表されて携帯電話も今後CPU性能がどんどんあがってくぜ、というのが既定路線になったのがこの頃だったと思う。

 

だから平井氏の話したかったことは「ARM向けのコンテンツを作る」ではなく「携帯電話がARMによって飛躍的に処理能力が増える。だから携帯電話向けのコンテンツを作らないといけない」だったはず。

 

ちょうどその頃の携帯電話ににはそろそろCortex-A8というARMコアを使ったCPUが来年か再来年に出てきそう、みたいな感じになってきていました。僕の感覚では、CPUの処理性能としてはCortex-A8を使った携帯電話向けCPUはゲームキューブと同じくらいの性能で、その次のA9を使ったものはWiiより速くなっていただろうと思います。まあゲーム機はCPUの処理性能だけがすべてではなくて、携帯電話はいろいろなしがらみがあって性能をフルに発揮できないんだけど、それでも携帯電話の性能が急激に上がってライトなゲームは携帯電話でいいやってなってる今から見れば彼らは当然のことを言っていただけです。

(僕は携帯電話業界にいたので当然そうなるだろうと2004年くらいから思っていて、当時ゲームとかに使われてたPowerPCよりARMのほうが将来性は確実にあると思っていたけど、まあそのときはまだARMに高速なプロセッサが発表されてなくてPowerPCのほうが速かったからなかなか通じなかったです)

 

◎(ARMは大したことがないという意見に対して)「他の人にこの話をすると、みんな『凄いですね』と言うんだ。大したことがないと言うのはお前だけだ!」  これは多数論証という詭弁。「みんな」を持ち出さないと説得できない時点で情けない。また、この「みんな」はおそらくお世辞だ。 

 これは、Cortex-A9の発表(アーム社、ARMv7アーキテクチャのマルチコア「Cortex-A9」を発表 - EE Times Japan )を見た上で大したことがない、と言っているなら、まあそれなりに傾聴しないといけない意見かもしれないのだけど、もしそのときに携帯電話に使われていたARMプロセッサの性能を測って、あるいはその頃のPDAの性能ベンチマークなどを見てそのように言っていたのであればそれはダメだろうと思います。3年以上先の将来の話をしているんだから。

だってA9をマルチコアにしたものが携帯電話に載ったら8000DMIPSだぞ。PS3のCPUは10240DMIPSだぞ。そんな携帯電話が出てくるかもしれないって時点でだいたいビビるでしょ。MP4なんて携帯電話には消費電力の関係でしばらく載らないぞとか、GPUはどうせ遅いんじゃないの? みたいな疑問は当然出てくるんですが。

 

「ゲーム業界はもうダメだ」というのはPS2の頃のようにたくさんタイトルを作れば泡沫のタイトルでも少しは売れておこぼれに与れるような時代ではなくなるということが言いたかったのではないかなあ。もう開発体制を維持することができない、だから少人数開発でモバイルにチャレンジするか、やめるかどっちかしかないと考えて、(少なくとも当時のゲーム開発については)やめるほうを選びました、ということのように思われます。

 

そんなわけで当該記事に書かれていた平井氏の話については、書かれてきたことが全部本当だったとしても割と筋が通っていてあまり「困った人」という感じではないです。

 

後藤氏はちょっと発言はいろいろヤバくて確かに「困った人」だなと思ってしまいました。でもこれはちょっと妄想がひどくないですか?

・『プロジェクト シルフィード』は『ステラアサルト』の焼き直しなのだが、開発中は「ステラ~」の「ス」の字にも言及しなかった。代わりに全然似てない「エースコンバット」の話ばかりしていた。つまり『ステラアサルト』の焼き直しということを隠すためのミスディレクション(注意そらし)だった。

 ステラアサルトもプロジェクトシルフィードも知らない人がゲーム画面見たらエースコンバットと同じタイプのゲームだと思うし、ステラアサルトなんてみんな知らないか忘れてるかだから当然エースコンバットと比べられることになると思うんだ。そりゃエースコンバットの話ばかりするのは当然じゃないでしょうか。

もしくは、この「エースコンバットの話ばかりしていた」というのがもしさらに上層部への説明だったとすれば、そりゃしょうがないよとしか言いようがないです。だってステラアサルトみたいな売れなかったゲームをもとにしますっていうとプロジェクトの将来性をめちゃくちゃ怪しまれて「エースコンバットみたいにしろ」ってどうせ言われるじゃないですか。だからそのミスディレクションは全然悪いことではなくプロデューサー/ディレクターとして当然のことをしただけのように感じます。

(結果的に全然売れなくて「隠れた名作」と言われるところまでステラアサルトと同じだったところ、何かの因果のようなものを感じないこともないです)

文系男子からリベラルさが失われたというやつ

gendai.ismedia.jp

 

いやー、素人なんで「リベラルさ」って何なのかよくわかんないことも多いんですがこの話のもとになっている調査が実施されたのが2015年の初頭だということには注意してほしいと思いました。アベノミクスが失敗に終わりかけているというのが日本全体として共有されつつある2019年の今ではなく2015年であって、「官僚から政治主導に」とか「国民の生活が第一」とか言ってた民主党政権が素人だらけだったからか失敗して当時の就職は最悪であり自民党になったらなにやら復活してきて就職氷河期を脱出できたわけじゃないですか。そりゃ反権威を標榜する奴らに対して疑念も浮かびますよ。専門家に任せたほうがいいよってことになりますよ。

 

ところで

自身の恵まれた環境を振り返って他者を思いやることのできる公正観、そして、新たな 社会を見通すことのできるイノベーティブな思考――そういった意味でのリベラルさ

 みたいな感じのことが書かれているので、なんとなくわからなくもないんだけど、でも個人的には「新たな社会を見通すイノベーティブな思考」とか偉そうなことを言っている人がほんとうに先端を走っている人たちに目を配って新たな社会を見通していたことなんてほとんどなかった(既に世間で数年以上前から話題になったことを捉えてこれからの社会は〜なんて言ってる人だらけだった)ので既にこの時点で割と引いて見てしまうのです。

 

そして日本がとても豊かで周囲の国がまだ貧しく、自分が裕福だという自覚を持てていた1995年頃と違ってもういまは周囲の国のほうが生産性が高かったりしているし例えば日本の大学を卒業した日本人が日本のメーカに就職するよりも中国の大学を卒業した中国人が中国のメーカに就職するほうが給料も高いみたいな状況だし世界に誇れる技術力なんかももうほとんどないわけじゃないですか。自分たちが恵まれた環境であると自覚して他人に施せっていうけど、めちゃくちゃ元気な隣の中国企業たちを見ていてどうして自分たちが恵まれた環境にあると自覚できましょうか。かといってグローバルな企業でガチに全世界の人を相手に戦うほどの実力もない。そんで日本企業に就職してどうやったら生き残っていけるか、ということを考えても「伝統がある」「歴史がある」「昔からある」みたいなラブライブ1期1話でみかけたような答えになっちゃうわけで、そりゃ伝統を大事に、みたいな思考にもなっちゃうと思うんですよね。

 

 

いや、実際のところ伝統とか継続性みたいなのはとても大事で、例えばMacBook Airを見てもらったらわかると思うんですけど、10年以上デザインのテイストは一貫してると思うんですよ。今の日本でこれ以上に継続してデザインが維持できているPCのブランドありますか? あります。レッツノートですね。彼らは伝統を大事にしているから生き残っているわけで、そういうところに「イノベーティブさが足りない」って特攻して勝てるわけない戦いをしてきたのがこの15年の日本企業だったということを踏まえて、むしろ1995年の調査のほうがバブルの残滓で浮かれていて変だった!!みたいな可能性があるという気すらしています。

 

 

ところで権威主義というのをやたら敵視する人がmstdn.jpに居まして、結局権威主義ってなんなのかなーってのがいまいち自分のなかではっきりしていないので、この記事を手繰れば、「一般的にどういう設問にどう答えることを権威主義とみなしているのか」がわかるかもと思って調べたのですが、下記の論文によればSSPによる調査では下記設問が権威主義的項目とされているようでした。

http://srdq.hus.osaka-u.ac.jp/PDF/SMM1995_r6_4.pdf

権威のある人々には常に敬意を払わなければならない

以前からなされているやり方を守ることが、最上の結果を生む。

伝統や習慣にしたがったやり方に疑問を持つ人は、結局は問題をひきおこすことになる。

この複雑な世の中で何をなすべきかを知る一番よい方法は、指導者や専門家に頼ることである。

なるほどね。でもこれに反対の態度をとったりなんかしたら就活マナー全否定になりますよね。氷河期の就職活動では全肯定していかないと就活を勝ち残れないやつじゃないですか? 文系男子で目立っているというのも、彼らが就職に関するプレッシャーに一番さらされる層だからですよ。だからもしこういう項目の設問で反権威主義的態度を学生に取らせたいのなら、景気を良くして売りて市場にするのが一番手っ取り早いと思いましたし、1995年から2015年の変化についてもそれまでの5年間の新卒求人倍率の影響が大きすぎて他はしょうじきどうでもいいような気がしました。

 

AIとかIoTとかで仕事が激変するとか言われてるけどさ

AIとかIoTとかで仕事が激変するとか言われてるけどさ、そもそもこれまでも俺たちの仕事ってわりと激変してばっかりだったじゃん。70年初頭までなにせ卓上計算機がなかったわけだから職場で必要な数値計算は全部手でやっていたわけだし、80年代はまだ新聞は活字と活版で組まれていて、新聞社に見学に行ったときにすごい工程を経て新聞が出来上がっていくのだけどそれを毎日繰り返すというのを間近に見て割と畏怖の念を覚えたような気もするし、だいたい90年代になっても僕はまだ学生だったけどプログラム組んでいろいろ自動化したりしてる横で、どっかのおっさんが原稿用紙に書いた内容をコンピュータに打ち込むだけの仕事とかもまだ残ってたりしてたわけじゃないですか。「事務職の仕事は、これまであまり変化がありませんでした」とか言ってる奴らってどんだけ世間知らずなんですか? って思うわけですよ。

 

そういう状況に対して「変化の速い時代だから答えのないものに自分で考えて道を切り開いて云々」みたいに説教たれてた連中は、実際のところ文章書きで、そいつらの仕事はまあ、それほど変わんなかったわけですよ。だから昔も今も新技術が出てくるたびに彼らはビビって騒ぐわけですけどね。僕らはもうそんなの慣れっこなんです。

 

だいたい2000年くらいになったらもうCSが世の中で大事になってるだろうと思ってそれ系の大学に行ってちゃんと卒業したのになんの評価もされず今頃になってSTEM教育だとか言ってるし、iモードとかが出てくる前から携帯端末が高機能化してきて「これはもう人々の生活の根幹が変わるぜ」と思ってバリバリいろいろ作ってモバイルアプリとかモバイルファーストなサイトで人々の生活を実際に変えてきたのにそれはなかったことにされてiPhoneが出てきて生活が変わったことになってるし、CO2で気候変動がやばいからCO2削減って2007年にはノーベル賞も取ったのに全く無視されて原発廃止した挙げ句今頃になって騒いでるし、もうお前ら10年遅いんだよってのがこの30年くらいずっと続いてるわけで。

 

 

そんなことより直近の問題としてAmazonとかAppleとかGoogleにあらゆる流通を支配されていて何を作っても彼らにショバ代を払わないといけなくなっている現状をどうすればこれ以上悪化しないようにできるのか考えてほしい。これはマジで。いくらゲーム作ってもスマホだったら彼らに3割とられていくの、どう考えてもその状態で日本企業が彼らに勝てるわけないでしょ。いくら教育とか頑張っても新しい技術を開発しても最終的にそれらを統合して製品にできるのがAmazon/Adobe/Apple/Googleで優秀な学生はそこに就職しちゃうし、映像作品を作れるようになってもNetflixの下請けになるとかみたいな、そんな状態で未来を語れって言われても虚しい気分にしかならんのです。本当なんとかならないんですかね。

つたない英語でメールを書いてたら日本語のメールも要点だけを書くようになってきてしまった

最近やってる仕事ではわりと頻繁にメールやチケットで英語を書くことが必要になることが多い。そして僕は英語が苦手である。

 

 

具体的にどれくらい苦手かというと、英語を書いても全然自分が書いたものが正しい表現になっているかどうかについて自信が持てないのだ。いろいろなところがあっているかどうかをいちいちGoogle先生に確認したりしてようやく発信できるような感じである。

 

いま、自分が書いたものにどれくらい自信が持てるかについて、自信が持てる順に並べると下記のような感じだ。

 

日本語=C言語>Java>C#>英語=Perl=C++>Python=Ruby>>その他言語

 

 

並べて見て思ったのだが、以前マストドンで「プログラマーの人もGoogleがなかったら何もできないんでしょう?」とかいうナメた発言を見てちょっとムカついたことを思い出した。でもその人が想定しているプログラマーのレベルが僕のPythonくらいのレベルなのだとしたら、それは確かにそうだという気がした。一度書いてみてもGoogleでいちいち構文についての解説ページを見て正しいかどうかを確認しないとあってるかどうかわからなくて怖い。でも本物のプログラマーが慣れた言語でコードを書いているとき、いちいちGoogleで検索したりしない。でも僕は英単語の用例があっているかどうかをいちいちGoogleで調べている。これではダメだ。

 

 

おっと本題からそれた。こんなふうに、英語が苦手なので簡単な文章ですら自信が持てないところ、これが複雑な構文になるともう正しく伝わるかの信頼度は極めて低くなってしまう。だから複雑なことを伝えるときは、いったんまず簡単に表現できるように日本語を書いて、それからそれを英語にする、みたいな二段構えで対応するような感じになってしまってわりと悔しい。

 

そうこうするうちに普段の日本語も簡単な構文ばかりで構成されるような感じになってきてしまった。こんな感じだ。

12月4日のビルドでつくられたパッケージをインストールしました。

でも、残念なことに私の環境では起動直後にSEGVが発生します

 

XXが間違っていると私は思っています

YYチームに向けてチケットを発行しました。BUG-XXXXXです。

 

急いで直してくれるとうれしいです。

 

なんとなく外国人向けの「やさしいにほんご」に近いものになっているような気がする。「バカにしてる」と思われたらどうしよう…

withnews.jp

プリンタ市場はがんばってほしい

プリンタが好きだ。特に家庭用のものが。

 

 

本当に僕が子供の頃に存在していたプリンタは縦8ドットしかないドットインパクトプリンタで、英数字といわゆる半角カナが印刷できるだけだった。紙送り機構は紙に開いた穴に回転するトゲトゲを噛ませる必要がある原始的なもので、A4用紙などに印刷することはできず両側に穴の開いた専用の紙を準備する必要があった。穴の開いた部分はミシン目で切り離すことができて、切り離すと綺麗な紙になった。そのころのプリンタの用途は本当に「コンピュータで何らかの計算処理や情報処理をした結果を印刷する」というものだった。

 

 

ドットインパクトプリンタのインパクト部分が16ドットや22ドットに増え、プリンタが漢字のフォントを持つようになって漢字が印刷できるようになりワープロが出てきて少し世界は変わった。フォントがビットマップフォントだったために大きな文字は印刷できなかったし、小さな文字も斜め線はドットのガタガタがぱっと見て気になる程度にはガタガタだった。1983年に発売されたPC-PR201は定価298,000円もしたけど、普段の生活で見慣れている活字とは程遠い品質の印刷物しか作れなかった。それでも日本語が印刷できるというのは素晴らしくて、いろんな人がきっといろんな文章をこのあたりのプリンタで印刷して世界を盛り上げたりしてたに違いないと思う。

 

 

その後ワープロが裕福な家庭だと一家に一台の時代になってビットマップフォントは24ドットから48ドットに高精細になってアウトラインフォントも当たり前のように使えるようになって、1994年にはBJC-400Jという59,800円でカラーで写真が印刷できるプリンタが買えるようになった。このころにはWindows3.1でMS-Wordを使えるようになっていたし、理系の学生は頑張れば家のPCでTeXを使えるようになったので素人目には印刷物かと思えるようなものが個人で家で作れるようになった。街中で売っている雑誌と比べると品質は劣るが、「別に、まあ、そこまでこだわらなければこれでも全然いいよね」と言えるレベルのものが誰でも作れるようになったのだった。PC-PR201からわずか10年でだ(そしてそこから数年でワープロ専用機は消滅した)。

 

 

僕はこの、「過去には資本が投入されためっちゃ高価な機材を扱うことができる特権階級の人たちしか作れなかったものが」「家庭でそのへんの店で買えるような機材で、やる気になれば誰でもが作れるようになる」というのがめちゃくちゃ好きで、だからパソコン自体も好きだし、プリンタも好きだった。インターネットのせいでWindows95が普及して、年賀状印刷をしたいという理由でプリンタが普及して、それが購入された理由はそういう理由だったとしても、実際ほとんどWebとかメールとか年賀状にしか使わなかったとしても、いざ何か印刷物を作りたいと思ったときに、A4のページが出てきてWYSIWYGっぽい環境で文章を編集できて印刷ができる機械が家にあって、すぐに印刷できる、というのはとてもいいことだと思っていた。

同じような理由でCD-Rが出てきたときもとても嬉しく思った。CD-ROMが一般的に使われるようになってから一般人がCD-Rを使ってCD媒体でデータを配布できるようになるまで数年のタイムラグがあり、その間CD-ROMに入るような大容量データを配布できる人は限られていた。いまではだれでもがディスクメディアにデータを書き込んで音楽CDや映像ディスクを作ることができる。PCはその上で動作するソフトウェアも同じPC上で作られているから、いま動いているソフトウェアは頑張れば自分でビルドすることもできる。PCを使っている限り、特にLinuxを使っているとき、「作る側」と「使う側」の境界が限りなく無くなっていてそれはとても価値があることだと思う。

 

 

しかし最近ではとっくに年賀状文化は廃れてしまったし、ペーパーレス化が進み印刷物を作りたいという需要自体が減ってしまい、プリンタが売れなくなっているということだ。スマホしか使っていない連中は、A4の大きさの紙の創作物を自分が作りたいと思うこともないんじゃないかという気がする。日本中のかなりの人がプリンタを持っていて、いつでも自分の好きな印刷物を作れた時代は終わってしまうのだろうか。一歩先に需要がなくなった光学ドライブ(ブルーレイ)は最近すっかり新機種が出なくなってしまった。時代の流れと言えばしょうがないのだけど、家庭用プリンタという素敵なものがなくなってしまう事態は個人的にはかなり寂しい。

富裕層の増加と貧困率の増加

日本での一般的な富裕層の定義は、「保有する金融資産が1億円以上の世帯」である。

そして相対的貧困の定義は「世帯の所得が、その国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない状態のこと」とされている。2015年時点の日本の場合には世帯年収が172万円以下の場合には貧困層と言われる状況にある。

 

 

富裕層かどうかは、いま保持している資産というストックで決まるが、貧困かどうかはその年の収入という、フローで決まることになっている。だから「金融資産は1億円以上あるけど、働いてないから収入はないよ」という人は富裕層かつ貧困層という不思議な状態になる。

 

 

富裕層の6〜7割は60歳以上だという。僕が考えるにここ数年で富裕層が増えた理由は割と簡単で、「団塊の世代で定年退職して退職金を貰った人が多かったから」である。もちろん株価の上昇で資産額が跳ね上がった人たちも多いだろう。でもそれ以上に退職金が占めるファクターが大きくあったのではないか。彼らの世代は転職もなく無事にずっと同じ会社を勤め上げたような人たちも多く、退職と同時に2500万円以上もの退職金が給付され金融資産が増えた人も相当数居るはずだ。この退職金の存在を無視しているような議論に意味はないのだ。

 

 

わりと一般的な企業では60歳で定年退職になる。そこで退職金を貰って、でも年金が受給できるのは65歳以降であり、しばらく収入がない状態になる。これは、退職金を貰って、富裕層になったけど、貧困層にもなっちゃう、ということだ。こういう世帯はここ10年で大幅に増えているはずで、しかも日本特有の状況である。割と裕福な人が昭和の時代の普通に暮らしをして年齢を重ねるだけで、富裕層は増え、貧困率は上がってしまう状況だったのだ。そしてそれは特に問題視すべきことではなかったはずだ。これに対して何の考慮もせずに他の国との比較や過去との比較で、格差が広がっている、と結論づけて政策を決めていくのは、雑すぎると思う。

 

 

あとはもう単純な書き方になるけど下記のような感じである。

・「富裕層」「貧困層」という言葉の定義をちゃんと決めて議論しないと、「富裕層で、かつ貧困層」を利するだけになる。

・「富裕層に課税を」という目的で累進課税を強化しても、半数以上の富裕層には影響はない。なぜなら彼らはすでに年金生活だからだ。